第14章 メインストリームに浸透する日本の食材 II
信念を貫いたキッコーマン
ゼロからの出発
1956年のアメリカ大統領選挙。アイゼンハウアーが再選された時である。サンフランシスコ地区で放送されたテレビの開票速報番組は、15分おきにキッコーマン醤油のCMを流した。キッコーマンがスポット枠を買い切ったのである。日本の衆議院選挙における速報番組と同様、非常に視聴率が高い番組だから、キッコーマンの名はしっかりと消費者の脳裏にインップットされた。
当時は、日本経済の高度成長が始まったばかりの頃。日本企業が続々とアメリカに進出し始めてはいたが、日本食ブームが始まる遥か前。ソイソースといえば、La Choy とかChunkin(重慶)といったブランドの、大豆などの原料を塩酸で分解するアメリカ産の化学醤油が主流で、中国料理専用だった。これに対して、キッコーマンは微生物の力で分解する天然醸造醤油。品質には格段の差があるが、値段は倍以上。日本食専門の食料品店でしか売られていなかった。
新商品の市場創出においては、市場の反応を見ながら徐々に投入宣伝費を増やすことが常道だが、キッコーマンは巨額の宣伝費投入を先行させた。「絶対に売れる」という信念がないと思いつかない戦略である。このCMによって、大手スーパーから注文が舞い込んだという。ちなみに、一定地域に総力をつぎ込む市場創出方法は「ブロックバスター戦略」と呼ばれ、このキッコーマンの宣伝は大学のマーケティング講座で「ブロックバスター戦略」の好例として今なお語り継がれている。
そして、その翌年の57年、キッコーマンはサンフランシスコに最初の販売拠点であるキッコーマン・インターナショナルを設立した。
キッコーマンの販売促進活動は最初日系人が多い西海岸から始まったが、間もなく東部でも行われるようになった。
64年にニューヨーク市で開催された世界博(ワールドフェア)。当時、商社兼松のニューヨーク駐在員だった私は、住まいが近かったこともあり、何回か足を運んだ。そのたびに目にした光景は、日本館の入り口で売られていたヤキトリにアメリカ人の長蛇の列ができていたこと。醤油が動物性の脂とともに焦げる臭いは食欲をそそるのだ。化学醤油との差はこんなところに現れる。
私は食品担当とはいえ醤油の販売には関係がなかったが、日本の食文化がアメリカ人に受け入れられたことは、自分のことのように嬉しかった。この出来事がニューヨーカーに醤油が受け入れられた最初だったと思う。後年、日本食業界にかかわるようになって、キッコーマンに関する文献㊟に目を通したが、この世界博における有料デモンストレーションに関する記述が見当たらず、「ことによるとあれは日本館独自のビジネスだったのかも知れない」と考えていた。しかし、この論考を執筆するにあたり
キッコーマンのHPを閲覧したところ、この出来事に関する記述があった。やはり、キッコーマンが仕掛けたPR活動だったのである。
では当時のキッコーマンの経営トップは醤油の海外戦略をどのように捉えていたのか。キッコーマンの代表取締役兼CEOである茂木友三郎氏の著書「キッコーマンのグローバル経営」の中で、同氏は「醤油は日本市場だけではこの先、頭打ちになる。多角化と国際化という戦略が正しい方向だと確信した(60年頃)」と述べている。実際に、日本国内における醤油の出荷量は60年代に頭打ちとなり、その後いったん上昇に転じたが、バブル期を境に漸減傾向となり、最近は60年代を下回る水準にまで落ち込んでいる(
醤油情報センターのHP)。同氏の予測が正しかったことは数字で実証されるのである。
経営戦略としての方向が国際化だと定まっても、おいそれと国際化できるわけではない。だが、キッコーマンの場合は、茂木氏がニューヨークに留学してMBA(経営学修士)を獲得していたという事情があり、国際化は現実味があったと思う。
さて、醤油は単価の割に重いから運賃が嵩む。それに、主原料の大豆と小麦はアメリカから輸入される。したがって、最終的には現地生産が望ましいことは明白だ。しかし、工場建設となれば当時のキッコーマンの資本金と同じくらいの投資額が必要だった。まさに社運を賭しての大プロジェクトになる。そこで、タンクコンテナーで製品を日本から輸送し、現地の提携先に依頼してビン詰めし、それを販売して需要を増やす準備期間を置いた。
一方、綿密なフィージビリティ・スタディーを繰り返し、何回か取締役会にかけて、ようやく工場建設が決まった。場所は中部のウィスコンシン州。醸造過程を経て、最初の製品ができたのが73年。だが運悪くその年に石油ショックがおきて、工場は赤字経営を余儀なくされた。しかし、その後需要が伸び3年後には黒字経営に転じた。
77年にディズニーワールド(フロリダ州オーランド市)の「アドベンチャーランド」の入り口に「アドベンチャーランド・ベランダ」というレストランをオープンし、テリヤキバーガーなどすべてキッコーマン製品を使った料理を提供したのも、キッコーマンの知名度を高めることに役立った。
その後は日本食ブームが進行したこともあって、醤油の需要は着実に伸び、キッコーマンは98年にカリフォルニア州に第二工場を建設した。その当時、アメリカの醤油のマーケットでキッコーマンのシェアは45-49%程度であったが、今でも同じ程度のシェアを保っているはずである。
キッコーマンはその後、シンガポール(84年)、台湾(90年)、オランダ(97年)、中国(02年)に工場を建設し、世界100ヶ国に供給する態勢を作りあげた。
キッコーマンの成功に触発され、88年には三重県のサンジルシが東部のヴァージニア州で、94年には千葉県のヤマサが西部のオレゴン州で醤油の現地生産を開始した。
注 文献とは、前出の「キッコーマンのグローバル経営」代表取締役会長 茂木友三郎著 07年生産性出版刊 および「キッコーマンの奇跡」横江茂著 89年講談社刊
需要が増える海外市場
醤油情報センターのHPによれば、醤油の海外における生産量は年間20万キロリットルとなっている㊟。これに対して日本からの輸出はどのような位置にあるのか。
下のグラフをご覧頂く。
08年の輸出実績は約2万キロリットルだから、海外生産量の1割に過ぎない。海外の醤油需要の9割は海外生産分で賄われているのである。
したがって、輸出実績を調べても海外の需要動向を知ることにはならないが、一応アメリカ向けとその他向けに分けて分析してみよう。
アメリカ向け輸出は安定しているように見えるが、最も輸出量が多かった06年でも5,366キロリットルに過ぎず、これは1975年におけるキッコーマンの現地生産量8,000キロリットルにも及ばない(醤油情報センターのHP参照)。需要のほとんどが現地産で賄われ、日本からの輸出は在留邦人向けの製品(丸大豆醤油とか中小メーカーの手造り醤油など)に限られているのだろう。06年をピークとしてその後2年は減少しているが、これはアメリカにおける金融不況の余波だと推測する。
一方、アメリカ以外の諸国向けは漸増傾向にあり、この10年でほぼ2倍になったことがわかる。この漸増傾向は、アメリカ以外の国における日本食ブームを反映しており、キッコーマンなどの海外工場の販売ネットワークではカバーしきれない部分を日本からの輸出が補っていると考えられる。
国内と海外の出荷量を比較してみよう。
日本国内の出荷量が95万キロリットル程度で漸減傾向であるの対し、海外の生産量は20万キロリットル。まだ国内の5分の1にもならないが、日本食ブームという追い風があり、急速な増加傾向にあることは確かで、海外需要が国内需要を追い越す時代が到来するのは時間の問題である。
では、キッコーマン社内では海外事業はどのような位置づけになるのか。
前出の「キッコーマンのグローバル経営」によれば、07年において、「キッコーマン・グループ全体の売上のうち約28%を海外で占めている。さらに営業利益は全体の約51%を海外で稼いでいる」。
国内ではキッコーマンの醤油のシェアは26%で断然トップであるとはいえ、競争激甚。それに比べれば、海外のシェアはおそらく70%以上で、利益率は国内よりずっと高いはず。営業利益では全体の51%を海外で稼ぎ出すことは十分うなずける。
半世紀前、「必ず売れる」という信念でゼロからスタートした醤油は、今やキッコーマンをグローバル企業に成長させたのである。
日本食業界という観点から見れば、醤油なくしての日本食はありえず、日本食ブームを支える重要な脇役を務めてきた。キッコーマンは業界発展の最大の功労者の一人である。
㊟醤油情報センターのHPに記載されている「海外における生産量」には、化学醤油は含まれていないと推測する。また、ヤマサとサンジルシの数量が含まれているかどうかは不明。そして、キッコーマンなど各メーカーは出荷数量を発表していないから、「生産量」とは多分「生産能力」であって、「出荷量」ではないと推測する。その「海外における生産量」とは02年現在であり、その後生産量が増えた可能性がある。いずれにせよ、「海外における生産量が20万キロリットル」はやや漠然としているが、当た